協力隊で久米島へ☆石坂達さん[2017.1.interview]
協力隊で久米島へ☆石坂達さん[2017.1.interview]
- 石坂達(トオル)さん
- 2016年に移住
- 地域おこし協力隊:移住定住促進『島ぐらしコンシェルジュ』
- 埼玉県出身
今日は、“協力隊インタビュー第二弾”として、昨年から久米島で、地域おこし協力隊:移住定住促進『島ぐらしコンシェルジュ』として働く石坂さん(通称:いっしー)に、ショートインタビューをいただきました。どこから来たの?以前は何をしていたの?なぜ、久米島へ?などなど。久米島生活9ヶ月目を迎えるいっしーに、「久米島移住までの軌跡と島の暮らし」について伺いました。
久米島のてっぺん!『宇江城岳』にて
Q いっしーは、久米島に来る前は、どこで何をしていたのですか?
A 昨年5月に久米島へ来る前は、島根県にある隠岐(おき)諸島の一つ、海士町(あまちょう)というところで働いていました。
その前は、大学卒業後から3年半、東京のIT企業で“ソフトウェアの導入と保守のコンサル”の仕事をしていました。 東京時代は、赤坂で仕事をして、六本木で飲んで、白銀高輪のシェアハウスに住んだり…していました(笑)。どれも楽しくはあったのですが、少しずつ、自分が疲弊してきていると感じ始めていました。平日は毎夜遅くまで働き、休日には買い物・交友にと「消費」をしまくる…「稼いで使って」の繰り返しの中で、ずっと自分を回し続けているような気持ちになっていたんですね。
また、東京生活も十分に楽しんだという満足感もあった頃で、『何か他にあるんじゃないか?』と思って過ごしていた頃、友人から、海士町での仕事を紹介されて、一念発起、海士町へと移住しました。
Q 海士町ではどのようなお仕事をされていたのですか?
A 「巡の環」(めぐりのわ)という会社で働いていました。僕は主に島を舞台にした研修業務のコーディネートを担当していました。少人数で回していたので、それだけではなく、物販の仕事でサザエなどの特産品を販売しに行ったり、シンポジウムの企画運営をしたり、大学のフィールドワークコーディネートや授業をさせてもらったり、いろんな仕事をさせてもらいました。
Q 海士町に暮らし、「印象的だったこと」や、都心から移り住んでみて「自分にあった変化」などはありましたか?
A そうですねぇ…印象的だったことの一つとしては、海士町というところは、「日々、哲学的なことを考え話す土地」だったことでしょうか。例えば昔から行われてきたような祭事や芸能、伝承なんかが日常の生活や風景に残っている。そうすると、「人一人の人生よりも長いスパンの物事に想いを馳せる」機会が増えます。また、人口が少ない(2350人程)ので、日々交流する人の顔ぶれが同じになることが多くて、徐々に皆々と深い話をしていく関係が出来ていきます。そういった点が、「暮らしの中に哲学を感じたり話したりすることが多くなる」理由だったのではないかと思っています。
「自分にあった変化」としては、自分は海士へ行って初めて、「居場所感」を感じました。人口が少ないので、地域での「人」一人一人の存在感がとても大きいんですね。人数が少ないチームで全員試合に出場する感覚、というか。お祭りに重要な役を貰えたり、イベントの時にそれぞれの特技を活かして何か出展する、とか。人一人の「スキル」や「バックグラウンド」、「特徴」といったものが活かされやすい。「君がいてくれるだけで嬉しい」なんてことを言ってくれることもあります。そんな経験を経て、存在レベルで受け入れてもらえた感覚、居場所感を味わいました。このようなことで人に喜んでもらえたり、必要とされる感覚は、人が多い都会にはあまりないことだと思います。
Q とても素敵な時間を過ごしていたと想像できますが、その後、どのようなきっかけで「久米島」へ来ることになったのですか?
A はい。本当に楽しく暮らしていました。一時は、家と墓を買ってずっと住もうと思っていたんです。
でも一つ、「自分はこれから、何をしていこうかな?」と考えたとき、自分の中にあった答えは、「自然界で生きていく力を身につけたい」というものでした。自分にとって「会社」というのは、いろいろな意味で「自然界から“守られる”とても優れた仕組み」だと感じており、その中にいる以上、自分はその部分に甘えてしまい、なかなか「自然界で生きる力、自分で生きる力」が身につかないと考えました。そして、「独立する」ことを目標としてみようと思ったんです。
もちろん海士町にいても「独立する」ことは出来ますが、お世話になった会社が傍にある以上、どうしても自分は甘えてしまうだろうと感じ、ひとまずは離れてみようと思ったんです。「では、どこへ行こう?」と考えていたところ、知人から『久米島』を紹介されたんです。
地域おこし協力隊として動き出すプロジェクトから、ゆくゆくは「島暮らし会社」といった会社へしていくことも素敵なのではないか?と聞き、それがきっかけで「久米島」へ降り立つことになりました。
Q いっしーは元々、大学で「町づくり」などを学んでいたのですか?
A いえ。大学は、農学部・環境資源科学科卒業で、当時は、「土から水を絞り出す研究」などをしていました。でも・・・研究はあまり得意ではなかったです(笑)。そんな中で、大学3年次には、1間年休学をして、単身バックパッカーで世界へ旅に出ました。中国に1か月―インドに2か月―中東や南米も周りました。お金もそれほどなかったし、野宿も多い旅でした。正直、二日に一度は日本に帰った夢をみていました。帰りたかったんでしょうね(笑) 。でも、この期間に、いろいろな「人」と出会って、さまざまな「状況や環境」を見たこと、それはとても良い経験になりました。良かれ悪しかれ、生き方の幅が広がった気がしましたし、『生き方というのは、生きていれば自由だな』と思いました。「生き方」の視野が広がる経験でした。
Q 世界を旅して、また、都会暮らしも田舎暮らしも経験しているいっしーの、「久米島暮らし」のご感想を聞かせてください。
A まず、月並みですが、年中暖かいのが嬉しいです!「海が綺麗」なのもやはりとても嬉しいです。この環境で暮らせるだけで結構幸福感があります。他に最近感じていることは、海士町に居た頃に比べて、「自分自身の生活の自給力が落ちたな」ということ(泣)。スーパーやドラッグストアで買い物することが多いな、と。今後米作りとか島野菜づくり、魚釣りや、久米島らしい料理を覚えたりしていきたいです。きっと、もっと僕が感じている以上に豊かな食文化があるはずなので・・・。
Q 最後に、現在のお仕事『島ぐらしコンシェルジュ』として活動して想うこと、そして、「これから」について聞かせてください。
A まず、『自分一人で頑張って出来る仕事では決してない』と、日々実感しています。
僕は性格上一人で走りがちなので、『島コン、役場、町民と、皆で力を併せてやっていく能力をもと高めたい・・・』と思っています。
また、ここからは個人的な想いですが、正直あまり人口対策というのはやりたくないな、と思っています、単に、「人口が減ってるから増やそう」というのは嫌だな、と。そうではなく、「より『良い町』をみんなでつくる」ことを目指したい。
未来の日本や世界に残るべきであり、住んでいる人がこの町での生活を通して幸せを感じられたり、生きる力が高まったり、自信や誇りが持てるような「良い町」を、今いる人や今後この町に住む人たちで、力をあわせて、知恵を絞ってつくっていく。
その一つの切り口として「移住・定住」の話があるんだろうと思っています。そして、この「島ぐらしコンシェルジュ」の活動でつくる仕組み自体がより良い町をつくる上で、水道や発電所などと同じレベルで必要とされる存在になっていたい。そうなるような仕事をしていきたいと思っています。
島コンは月に一度(現在は第三金曜10:00~)、「FMくめじま」の「はいさいくめじま」に出演させて頂いています。
本日は、「協力隊インタビュー第二弾」でした。ご協力ありがとうございました。~izumi~