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久米島へIターン☆田村圭介さん [2016.8 interview]

久米島へIターン☆田村圭介さん [2016.8 interview]

  • 田村圭介さん
  • 2011年にご家族で移住
  • 久米島漁協勤務
  • 群馬県出身


田村さんは群馬県出身。高校卒業まで群馬で育ちました。高校卒業後は埼玉県の大学に進み、その後群馬に戻って大手ハウスメーカーに就職。大学時代に出会った奥様とご結婚後、二人のお子様に恵まれ家族4人、群馬県で過ごしておられました。上のお子様が保育園に通い始め、下のお子様は生まれたばり。そんな中、久米島への移住を希望し、そして決断しますが・・・

「正直、背中を押してくれる人はほとんど居なかった。」 

若くして漁協の水産物加工場の責任者を務める田村さん。


久米島へ移住して5年になる田村さん。群馬で奥様と共に二人の小さなお子様を養いながら生活をしていたなか、どのようなきっかけで移住し、そして今、どのような想いを持って過ごしておられるのか、お話を聞かせていただきました。

Q 田村さんはご結婚後、ご家族で久米島へ移住したのでしたね?
A そうです。結婚して二人目の子どもが生まれて、その後4人で久米島へ来ました。31歳の時でした。

Q 奥様が久米島のご出身とうかがいました。
A そうなんです。でも、久米島へ行きたいと言ったのは僕で、奥さんは一度も帰りたいとか言ってないんですよね(笑)

Q そうだったんですね。奥様のご両親から「久米島へ・・・」とお話しがあった訳でもないのですか?
A はい。こちらから話をしました(笑)「久米島に住みたい」と。

Q 久米島へ来る前は、どこで何をされていたんですか?
A 大学卒業後、実家のある群馬でハウスメーカーに就職して3年間営業をしていました。その後、一度転職してそこで6年、建設系の営業をしました。奥さんも子育てをしながら、群馬で仕事を していましたね。

Q もともと、いつかは久米島へ(奥様の実家の近くへ)移住しようというお考えがあったのですか?
A いえ、特に人生の中で予定していた訳ではなくて、「沖縄に住んでみたいなぁ」と誰もが一度は 思う様な、そんな気持ちはあったかな…そんな感じですね。でも、決めた後は早かった。スピード移住でした。勢いがないと無理かなって。

Q 移住するとき、悩むことはなかったですか?
A いや、ものすごく不安でしたよ。怖くてしょうがなかったです。子どもが二人いて、下の子はまだ赤ちゃんだった。周りの人の多くからは「夢みたいなこと言って・・・」と言われ、正直、久米島への移住に背中を押してくれる人なんてほとんど居なかったですね。


「むちゃくちゃ不安でした。怖くてしょうがなかった。
それでも、田舎暮らしがしたかった」 


田村さんが生まれ育ったのは群馬県の人口1200人ほどの村。「久米島よりももっとずっと田舎だった」と話します。
大学卒業後、群馬の町で働いていましたが、夜は10時まで働くのが当たり前。家族で暮らしていても、特にその町に愛着が持てなかった、と。

そのような町でこれからずっと子育てをしていくことも、仕事をしていくこともどうしてもイメージが出来なかったと言います。

「一生ここで暮らすのは、とにかくつまらないと思った」と話す田村さんは、お子様が小学校に上がる前が最後のチャンスだと思い、奥様の実家のある久米島での田舎暮らしを希望します。「31歳まだいける!決心出来る最後のタイミングじゃないか」と心を決めたのです。



 「嬉しい・懐かしい・悔しい。」 


Q 久米島での仕事や家はどのように探されたのですか?
A 当時(5年前)は、今よりももっと情報が少なくて、群馬に居ながら久米島での仕事や家を探すのは ほぼ無理でした。だから、仕事のあては全くないまま家族で移住しました。家は、最初は奥さんの実家 に同居させてもらいました。今は、実家のすぐ隣に引っ越して家族4人で住んでいます。

Q お仕事はすぐ見つかりましたか?
A はい、すぐに(笑)!島へ引っ越ししたその日に、スーパーにはってあった求人広告を見てすぐ電話をして、翌日面接、その翌日から働き始めました。島へ来て3日目には働いていました。 最初はアルバイトですよ。時給です。子ども二人居てですからね。当初は結構辛かったですよ。奥さんもすぐに建設系の事務職について、今もそちらで正社員としてばりばり働いています。それでもね、最初は本当に大変だった。義父・義母が居てくれなかったらやっぱり無理だったかな、とも正直思いますね。

Q 今現在田村さんは漁協にお勤めですから、ご転職されたんですね?
A そうです。バイトから始めたその仕事は3か月で契約社員になって、その後3年程務めさせてもらいました。観光業に携わる分野だったのですが、そのおかげで観光協会青年部などとつながることになり、島のいろいろな人と知り合うことが出来たし、島とのつながりがすごく強くなるきっかけになりました。本当に良かったと思っています。そして 縁あって漁協に転職し3年になりますね。


移住当初は本当に大変だったと田村さんはお話しされました。でもその一方で、やはり「自分が子どもの頃に暮らしていた環境に似ていて、生活がとても楽しい」「島では、自分たちが何を大切にしていくべきなのか、その範囲がとてもシンプルでわかりやすくてそれがとても嬉しい」そして、都会では持てなかった「自分たちの島(暮らす地域)への興味」が持てて、愛着になっている。ただ、悔しいこともあったとお話ししてくれました。

移住当初、自分は、島で根を張って暮らしていこうと決意の上、移住してきたけれど、なかなかその気持ちをわかってもらえることばかりではなかった。「移住者はいつかまた出ていってしまう」と感じる島人は、その人と深く知り合うことを寂しく感じる方も少なくはない様です。


「漁協の仕事は行政とも密接に繋がっていて、とても幅の広い仕事」 


Q 漁協のお仕事、とてもやりがいのある様にお見受けします。
A 最初はね、怖かったですよ「海人」が(笑)でも、入ってみたらとっても楽しいです。でもまだ海人は怖いですよ(笑)実際は、みなさん優しいんですよ!移住者は最初、観光業に携わる人が多いと思うんですが、ずっと島に暮らしていきたいと思う人には、もっともっとこの第一産業への間口が 広がるといいなとすごく思うんです。
Q 移住して5年が経った今、「田村家の移住」についてどの様に感じていますか?
A 全てが順調です。すべてが、思い描いた通りになっています。



「自分は特別なスキルなどない。でもそういう人も移住しやすい環境にしたい。
しないといけないと思う。」 


Q 今、移住を検討している方にアドバイスなど何かありますか?
A 自分は移住するとき、まだフェイスブックなども盛んじゃなくて「ミクシー」を駆使して、久米島に住む方に いろいろ話を聞いたりしていました。「物欲などはおさまるものですか?とか(笑)

でも、そんなたわいもない質問が出来ることだけで随分と気持ちが救われたんです。だから、アドバイスというか、何か移住を考える上で、もやもやするようなことがあったらとにかく何でも話を聞いてあげたいと思っています。そういう機会が 是非あった らいいのに、と。

また、久米島へ移住してきている人は皆、本当に優秀というかスキルを持っている素敵な人が多いんですが、自分はスキルなど持っていなかった。でも今、とても幸せに暮らさせてもらっているんです。だから、手に職を持っていない人や、特別なスキルがない人でも移住しやすい環境にしたいと思っています。そうしないといけない、と。島で「仕事を作る」のは他の人に任せます(笑)自分は、「来る人のフォローをしたい」本気でそう思っています。


「今自分は、島に住まわせてもらっていると感じています。仕事もさせてもらっていると。そういう気持ちはずっと大切にしたいんです。そして、島に還元していきたいと心から思います。」 


★最後に★
島の人が度々「圭介が…」「圭介さんがさ…!」とお話されているのを耳にします。周りの方からとても愛されている人物なのだろうと思っていました。そしてこの度お話を伺って、田村さん自身が「今の状況に対して」そして「それをくれた島と島の人に対して」感謝に溢れているように感じました。久米島へ移住した5年前、大変なことは沢山あった。でも、自らの人生と家族の人生をより良いものにするために、まっすぐに努力をされたのだなと思いました。
―koborebanashi―

kt : 奥さんとは大学の軽音楽部出会ったんですが、奥さんが成人式の時に両親からもらったという三線を、ある時僕が弾き始めたんです。群馬にいた時で、隣町まで習いに通って、すっかりはまって。今思 うと、三線を始めてなかったら、田舎暮らし→久米島移住、という流れももしかするとなかったかもしれません。
izumi : 圭介さんが習いに行ったんですね。
kt:はい(笑)三線にはまったのも僕で、奥さんの地元である久米島にはまったのも僕ですね(笑)奥さんはいつも淡々と協力してくれました(幸)

~Thank you~