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久米島へJターン★宮良みゆきさん[2016.9 interview]

久米島へJターン★宮良みゆきさん[2016.9 interview]

  • 宮良(みやら)みゆきさん
  • 2000年に移住
  • 博物館学芸員
  • 沖縄県出身


宮良(ミヤラ)さんご一家は、木工職人のご主人耕史郎さんと、学芸員として博物館に勤務する奥様のみゆきさん、そして小学生の愛娘の3人家族。久米島で、築約60年の素敵な古民家に暮らして14年が経とうとしています。みゆきさんは沖縄県出身ですが、生まれも育ちも沖縄本島。大学時代に一度東京で暮らし、その後、就職で久米島へ移住します。今回は、みゆきさんが久米島で暮らすことになった経緯の他に、みゆきさんが心から大切にする「久米島紬」についてと、宮良さん一家が営む「古民家暮らし」についても一緒にお話をお聞きしました。

 

「古民家暮らし?大変ですよ!」 

Q 宮良家は、本当に素敵すぎるくらい素敵なお家(古民家)ですよね!古民家の暮らしはどうですか?
A んー、古民家はねぇ・・・大変よ!(笑)

Q あら!?少し意外です。みゆきさんから、第一声に「大変」とお言葉が出たのは。
A 憧れだけではね、住めないと思う。“純粋古民家”は特にね。大変だよ。


Q 具体的にはどの辺りが大変でしょうか?
A 雨漏りはするし、虫はどんどん入って来るしね(笑)庭の草刈りももちろん大変。そういうのがクリアできて、後は「多少のことでは驚かない」人は大丈夫かな。あと、家を自分で直せる人ね。


Q こちらのお家は、みゆきさんの祖父母のお家だったとか?
A 祖父の本家ね。築60年くらいかな。自分たちがここに住もうと思った時は、もうずっと誰も住んでいなかったから、いろいろなところを直してから住み始めたの。

Q そうだったんですね。どの辺を修復したのですか?
A 水はかろうじて出たからね(笑)まずは、ホースで家中を洗って、それから水周りだけはフルリフォームしたかったから久米島の大工さんに頼んで、後は、キッチンを土間に変えたりとか。もちろん畳も変えたよ。猫のひっかき傷とかで大変なことになっていたから(笑)そして、娘が生まれる時に、主人が天井を張り替えて…。仕事しながら、家ではリフォーム改修って感じだった。

Q 久米島へ来た当初はアパートにお住まいだったんですよね?
A そう。私が就職で久米島へ来て、アパートで独り暮らしを始めて、その後結婚してからも、2年くらい2人でアパートに暮らしていたよ。

Q いつかはこのお家(古民家)に住もうと計画されていたんですか?
A いや、本当に“いつか”くらいで私は思っていたんだけど、ある時主人が「住めないかな?」って。それで、「え?住むの?住めるのかな…」と。

ご主人の耕史郎さんは、久米島で“五え松工房”を営む木工職人。
久米島空港カフェ「風人」(写真)の椅子やテーブルは耕史郎さん作


Q そうだったんですか。ご主人の耕史郎さんは、石垣島のご出身でしたでしょうか?
A 生まれたのは沖縄本島で、両親の仕事の関係で5歳くらいまで石垣に住んでいたの。でも、ずっと本島だね。大学も、そして就職もね。

Q では、耕史郎さんも移住者と言えば移住者なんですね。みゆきさんも、ご自身の出身は沖縄本島なわけだから移住者か…。みゆきさんは、就職で久米島へ来たときは、お友達など全然いなかったということですか?
A そうだよ!大学を卒業して就職で久米島へ来たときは、よく農道で道に迷ったりしてたなぁ。もちろん、友達もいないし、最初は、職場だけが世界って感じの生活だったよ。でもその後、織物の友達が出来て、その人たちに育てられたなぁと思う。悲しいときや辛かったときは、その人たちの話を聞いていると楽しくなった(幸)

「きっかけは、NEWS23」 

Q みゆきさんは高校で沖縄本島にいらしたんですね?
A そう。高校卒業して東京の美術短大に行ったの。陶芸の勉強がしたくてね。東京では、東高円寺に住んでいて、楽しかった。学校の授業も全部楽しかったし、もちろん東京で遊ぶのも楽しかった。でもね、大学2年の夏に部屋で、大好きだった筑紫哲也さんの“NEWS23”を見ていて、そこで、沖縄で起きた事件の報道を見てね…「こんなに沖縄が大変な時に、自分はここに居ていいのかな」って気なって。そして、「何か沖縄のためになることをしたい」を思ったの。それまでは、郷土愛っていうか、自分が沖縄生まれであることとか、そんなに考えることはなかったんだけど。

Q そうだったんですか。
A でもね、今の自分に何ができるだろうって考えたけど「まだ沖縄のことに貢献できる人間にはなれてないな」と。そして、自分にできることは何かないかと考えていたとき「久米島のおばあちゃんのところへ行こう!」と思って。祖母は久米島紬を織っていて、でも、後継者がいないと言っていたから。その後継者になればいいんだ!って。「今すぐ行かなきゃ」と思ったんだけど、でもやっぱり、今の中途半端な自分が行ったところで足手まといになるだけ。織物の勉強をし直そうと思ったの。大学中退も考えたけど、でも、陶芸の勉強もこれからやることに役立つこともあると思って、残りの学校生活も出来る限りの授業を受けて卒業した。専門家が教えてくれる授業は本当にどれもこれも全て面白かったしね。


Q それでは、美術短大を卒業してから、あらためて織物の勉強を?
A そう。東京の美術短大を卒業後、沖縄の芸術大学の織物コースを受験したんだけど、短大の卒業制作と同時に大学のセンター試験の勉強…大変だったよ。でも、織物、そして久米島紬の勉強をするには沖縄は染織王国だし、久米島紬だけじゃなくて、沖縄県の織物を知らないといけないし頑張った。

「久米島紬が好き。紬を織る“人”が好き」 

左写真は博物館から見える景色。みゆきさんのご趣味は「種子拾い」。“漂着種子”をこよなく愛でておられます。素敵…。

Q お勤めの「久米島博物館」本当に素敵ですね。海を前面に見渡せる立地もとても素敵です。ここに就職することになった経緯を教えていただけますか?
A 短大を卒業してから沖縄の芸術大学へ入学して4年間織物の勉強をした後、卒業するその春に、ちょうど久米島博物館が出来ることになっていて、学芸員の募集があったの。学芸員の採用は全国的にもなかなかないし、しかも、久米島紬のある久米島で。初めは、学芸員の仕事をしながら織りも出来たらいいなと考えていたけど、仕事はそんなに甘くなかった。今は、織りはやめて、久米島紬の保護や織手の方々の支援を行っています。

Q 本当になんでしょう。呼ばれているというか、繋がっていたというか、すごいと思います。その導きが。あのとき、部屋でニュースを見て、沖縄の事件を知って、何かできないかと考えて、おばあちゃんの久米島紬へ…ですものね?
A でもね、私が久米島へ来たときは、祖母はもう久米島紬の織子はリタイヤしていたの(笑)


Q お話を聞いていると、本当に好きなことを最高の場所で仕事にしている感じがします。お仕事お好きですよね?
A うん、やっぱり「久米島紬」が好き。久米島紬を織っている「人」が好き。そして、その仕事を支援できる今の仕事が好き。本当にいろいろなことを教えてもらった。学芸員としては初代館長の上江洲均先生から。そして、人としての生き方みたいなものは、織物を織っているおばちゃんたちから。「こういう人がいてくれるっていいな」と心から思った。久米島の良心を表しているような人がいっぱいいるの。


ーそしてみゆきさんは、「久米島紬」について、次の様にもお話ししてくれました。


世の中ではどちらかというと、年配者は社会から離れていく感じが多くあるけれど、久米島紬はそんなこと全然ない。織物の世界はね、50代・60代で子育てが一段落するころ“やっと織れる”ようになって、70代になると“やっと納得できるものが織れる”そして、80代になるとね、すごいものを織るの!80代で「これから」って言えるモノづくりって、他にはなかなかないんじゃないかな。その年齢になると、技術も知識も経験も豊富で、そして何かに捉われるような規制もない。どこまでも自由で、恐ろしいとさえ思うような、力強く美しい織物が織られる。この環境を未来永劫守っていきたい。


「こんな便利な場所はない」 

Q 島の暮らし、島での子育てはどうですか?
A 島はね、まず…毎朝出勤するときの、空と海の“色”がね。こんなにいい通勤路はないと思う。前に海があって後ろに山があるでしょう。だから、出勤時は海をみて、帰りは山を見るんだけど、深緑色のブロッコリーみたいな山々(笑)の色が、パッチワークみたいに少しづつ色が変わっていく。森が萌える準備をしているのがわかる。秋も美しい。それの一つ一つが愛おしい。海は近いし、山も近い。こんな便利な場所はないよねぇ。

娘はね、外で遊ぶのも好きだけど、本を読むのもとても好きで、私も本が大好きだから、よく2人でね、家の柱に各々背中をつけて本を読む時間があるの。ちょうど部屋の中で娘と向かい合う感じになってね。そんな時間もとても愛おしいと思うし、庭先で見える夕日が、時にとても不思議なピンク色だったりするんだけど、そんな中で見る娘も愛おしくてね。


★最後に、みゆきさんの大切にしている子育ての想いの一つについてお聞きすることが出来ました★


私が小さいときに祖母の家で遊んでいたある時、祖母が織っている最中だった久米島紬(久米島紬は織るの に大変な時間がかかる)を、ハサミで「ぱっつん」と切ってしまったことがあったの。ちょうどその頃、祖母が私にハサミの使い方を教えてくれたばかりの頃でね。大変なことをしてしまった。すごく怒られるはずなんだけど、祖母は「仕方ないねぇ。おばぁがハサミの使い方教えたからねぇ(笑)」って。もしそのとき、すごく怒られたりしていたら、私は今、久米島紬を好きになっていなかったかもしれないし、今、この仕事もしていなかったかもしれない。人は何がきっかけで好きになったり大切に思い続けたりするかわからないなぁって。だから、娘に対しても、命に関わるようなことでなければ、何かやってしまったとしても、あまり怒らないように、それを切り離してしまわないようにしたいと思ってる。何か壊したり、失敗したときって、子どもでも、本人が一番わかっているものだしね(笑)

★THANK YOU★
おばあちゃまがその時、みゆきさんと久米島紬を切り離すようなきっかけを作らなかったことで、みゆきさんは今、心から久米島紬が大好きで、その紬に寄り添い、そして素敵なご家族とこの島で暮らしているのかもしれないと感じました。みゆきさんは久米島生まれではないけれど、なんだか、久米島にもっと古くから繋がっていたのではないかなぁと感じて、定義は違えど、本来の?Uターン(出身地に戻ること)かもしれない…素敵なことだなぁと思いました。私は宮良さん一家が大好きで、この島でお会い出来たことが本当に本当に嬉しい出来事の一つです。島の人々とお話をすると、度々「島への感謝」「島の人への感謝」の気持ちを耳にします。島で暮らしていると、“感謝の気持ちはバトンの様に繋がれていくもの”と感じられます~izumi~